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時市 1

 ごとんと身体が跳ねて、結露をしたためた冷たい窓ガラスに頭をぶつけた。 それまで浮遊していた私の意識は、痛みにぐいと引き寄せられて、身体という入れ物に再度封印された。 でもまだまだ寝たりなくて、瞼をあげられない。

 私は目を瞑ったまま痛みのある側頭部をさすろうとしたのだが、身体の掌握はまだまだ未完成で、うまく腕を動かせなかった。

「いきなり身体を動かすのは得策じゃないよ。 まずはその縮んだ肺を膨らませないと。」

 背後から声が掛かる。 低く目だが太くはない、耳馴染みのいい声だった。 誰の声なのかは判らないけれども、警戒心や懐疑心は生じない。 おそらくそれなりに親しい人なのだと思う。

 確かに、私はなんだか息苦しさを感じていた。 彼の言う通り、肺を膨らませるべきなのだろう。 鼻から息を吸う。 肺が膨らみはじめると同時に、私はげほげほと咽返った。 痛みを伴ったのだ。 肺の内側はまるで、冬の乾燥した空気に晒されてからからに乾燥してしまっているようだった。 広がりながら、伸縮性の低下した肺繊維がぶちぶちと切れて行くような、そんな痛みだった。

「それは痛みじゃない。 必要なことなんだ。 さぁ、もう一度。」

 狭い座席の中で咳き込む私の背中をさすりながら男が言う。私は痛みに耐えながらも、咳に涙を浮かべながらも、男のいう通りにした。

 鼻から空気を吸う。 肺がびきびきと痛み、咳として外へと排出される。
 鼻から空気を吸う。 肺が軋み、少し咳が出る。
 鼻から空気を吸う。 肺がきりりと軋むが、こらえられた。
 鼻から空気を吸う。 また咳が一回だけ出た。 もうほとんど痛みはない。
 鼻から空気を吸う。 もう痛みはない。

「そうそう、いい調子だ。 肺を膨らませることを、もう二度と忘れてはいけないよ。」

 男性が私の背中をさする手を止めて言って、言い終えてから手を離した。

「さぁ、時市まではもう目と鼻の先だ。 指や足の感覚はちゃんとあるかい?」

 言われた通りに親指から順番に折りたたんでみることにした。 大丈夫、うまくこなせる。 足の指すら不自由なく動かせた。 先ほど窓に打ったところを撫でてみる。 大丈夫、腫れてはいない。

「……まだ痛むの?」

「……いいえ、もう大丈夫。」

「それはよかった。 それじゃあ行こうか。」

 私の体を常に揺らしていたエンジンは既に停止していた。 前進もいつのまにかしていない。 私の前と、右隣と、後ろに並ぶ紫色のシートを見渡す。 誰もいない。 そこにいたのは私と、私の真後ろのシートに座っていた男性の二人だけだった。

 中央よりもやや右側で別れている前髪に、長くも短くもない襟足。 混じり気のない黒髪。 一方で肌は白雪のように白く、顔には高すぎない鼻と、少し厚めの唇と、細い銀縁の丸眼鏡があった。 良く見ると鼻から頬にかけて薄いそばかすがある。 目は一重だけれども小さくはなく、眼鏡の奥の瞳の色は髪と同じく真っ黒だった。

 歳は三十台半ばくらいだろうか。 随分聴き覚えのある声だと思ったのに、顔を見た今も一体彼が誰なのかは分からない。 もしかしたら全く見ず知らずの方なのかもしれない。 そうであるならば私は今まさにこの方に、大変な迷惑をかけてしまっているのかもしれない。

 謝罪の言葉を述べるべく体の向きを正すと、正面に迎えられた彼は、私が顔をあげるのを見計らってにこりと笑った。

「ダイ、ジョウ、ブ。」

「え?」

「大丈夫。 掌握には時間がかかるものなのだと、△×◎●□■×○√は言っていたから。」

「え?」

「大丈夫!」

 一体何が、そして誰が大丈夫だと言っていたのか。 聞き取れなかったし、聞き取れたとしても解決したとは限らない。 けれどもそれ以上の追求を静止する力が、まるでウサギかリスにでも対面したような愛らしくて底なしの無邪気さに溢れたその顔にはあった。

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プロフィール

帝埜 やしる

Author:帝埜 やしる
 
好きな作家:
 村上春樹、森見登美彦

作品の内容:
・ローファンタジー
・夢で見た内容など

執筆中:
・くじらの夢
・時計部屋の鍵と少女
・時市

完結:
・背の高い刑事と傷の少ない
 犯人の話
・ワールドプラネット

短編:
・タッタカタン
・冬の香り
・砂浜で埋もれていた亀の話
・公演会と誕生日会
・Settle Down
・ガラスの外殻を持つランプ

即興小説トレーニング
・甲板の男
・死にかけの血液
・気付かない振り
・二つの朝
・夢

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