昆虫のカプセルトイ 1

「緋色の街の先の、金色の稲穂畑の先に、青い森があるのは知ってる?」

「うん。 しってる。」

「その森の中にね、機械の都会に行くためのバス停があって、そのバス停のすぐとなりに、ガチャガチャがたくさんあるんだって。」

「ガチャガチャ?!」

「そ!」

 弟の瞳がきらりと輝く。ガチャガチャとは、レバーを回すことで小さな玩具を内包したカプセルが出てくる、児童用自動玩具配布機だ。正確にはカプセルトイというが、レバーを回す際にガチャ、ガチャ、と、内部で機械が動く音と、手にその感触を得られることから、子供達は感覚的にそれをガチャガチャと呼んだ。

 かつてはこの村にも、沢山のガチャガチャが設置されていた。それはあまりにも娯楽の少ない田舎において、未来を担う子供達へ楽しみとインスピレーションを与えるために政府が設置したものであったが、今ではほんの1台しかなく、補充は数年に一度しかされない。そのため弟が実際にガチャガチャを回したことはない。玩具を持ってはいるが、それは私のお下がりだ。ガチャガチャは、人によって与えられるシリーズが異なる。私に与えられたシリーズは、様々な原石や宝石、鉱石、金属で装飾された、かつてこの世に存在したといわれる『昆虫』という生き物を模ったものだった。

 私はその『昆虫』に対して、特別に嬉しいという感情を持つことはなかった。むしろ定期的に『えさ』を与える必要があったため、面倒にすら思っていた。一方弟は、『昆虫』の世話をするのをむしろ楽しんでいるようで、定期的に蓬畑へ行って蓬を摘んでは、生成した『あぶらむし』を『昆虫』に与えていた。

 『昆虫』に興味をもてなかった私は、たった一度しかガチャガチャを回さなかったが、弟がこんなに喜ぶと知っていればもっと沢山回したのに、と、実は大いに後悔している。残念ながら弟が『昆虫』に興味を持った頃には、私はガチャガチャこと児童用児童玩具配置機の対象外になっていた。そのためガチャガチャを回して『昆虫』を追加するということは今更叶わない。

「まぁ、ここからはかなり遠いから、なかなか行くのは厳しいんだけどね。」

 夢を奪うようで心が痛んだが、ここから青い森までは自転車で数時間かかる。私くらいの年齢であれば行って帰ってくることは可能だが、私では年齢制限があってガチャガチャを回すことはできない。かといって弟では幼すぎて、辿り着く頃には夜になってしまうだろう。行って帰ってくる事が難しいことくらい、さすがに理解できるはずだ。

「……青い森の、バス停のガチャガチャかぁ……。」

 しかしながら、私の言葉はまるで弟には届いていないようだった。未だきらきらした瞳を携え、見ることの叶わぬその景色を思い浮かべていた。



 翌朝、私は戸の閉まる音で目を覚ました。カーテン越しに外を見るが、まだ薄暗さが残っている。早朝だ。

 いやな予感がして、私は弟の部屋へと急いだ。普段ならばぐっすり眠っているはずの時間なので、起こさぬように静かに戸を開けて、部屋を覗き込む。部屋の中央に敷かれた敷き布団の上の、黄色と緑の大ぶりの果実が描かれた布団は勢いよくめくれ上がっていて、そこに眠っているはずの弟の姿は見当たらなかった。

 玄関へ急ぐ。庭用の土で汚れたサンダルをつっかけて戸を開けて、玄関の右手側に目を向ける。普段ならば並んで駐輪してあるはずの自転車は一台しかなく、弟用の背の低い自転車はどこにもなかった。

昆虫のカプセルトイ 2

 今すぐに家を出れば弟に追いつけただろうが、私はそうしなかった。弟は今朝ご飯を食べていない。きっと会う頃には相当な空きっ腹になっているだろう。私は顔を洗うなり、急いで米を研いだ。次いで身支度をして、その上からエプロンを着た。ざくざく青菜を切って湯に放る。油抜きした油揚げも細く切って放る。これは私の朝ご飯用のお味噌汁だ。その横で鮭を2切れ焼いて、冷蔵庫から常備菜の詰まったタッパーを1つ選んだ。鮭2切れのうち一方は私の朝ご飯用で、もう一方は弟のお弁当用である。それから卵を2個水から茹でて、ウインナーを焼いた。

 ご飯が炊けたら、まずは朝食をとることにした。なにせ炊きたてのご飯は熱くおにぎりにするには熱すぎる。朝ご飯を食べている内に冷まそうという魂胆だ。今朝の献立は青菜と油揚げの味噌汁と、焼き鮭、常備菜のレンコンのきんぴらとした。しかしそれだけでは物足りなかったので、目玉焼きと常備菜のたけのこの土佐煮も追加した。朝からへんにエネルギーを使ったのでいつもよりお腹が空いたのかもしれない。

 お腹が膨れたところで、ようやく弟のお弁当にとりかかった。お弁当といっても簡単なもので、ほぐした焼き鮭を包んだおにぎり2つと、ゆで卵2つと、焼きウインナー数本と、常備菜だ。おにぎりはラップとアルミホイルに包み、味付け海苔(5枚入り)を別添えする事にした。ゆで卵は殻を剥いて少しだけ塩を振ってアルミホイルに包み、ウインナーと常備菜はそれぞれ別の小さなタッパーに詰めた。それらを詰めたアルミの張られた保冷バッグを持って、財布と塩飴と変密水筒の入ったメッセンジャーバッグを装備して、それから火の元を確認して、ようやく家を出た。今日は黒のメッシュ素材の靴を選んだ。なんだか長い旅になるような予感があった。



 弟のお弁当をつめた保冷バッグをカゴに入れて、自転車を漕ぎ出す。門の先は一本道だ。というよりこの辺りには道しかない。道の他にあるものをわざと挙げるとしたら、道の両脇にある深い水路と、どこまでも広がる何も植わっていない田園くらいだ。田園にも道端にも雑草は一本もない。水路もとうに枯れ果て水はない。堅く乾燥した土と、整備された水路の残骸しかないのだ。

 何もないこの土地の三方は、黒山によって塞がれている。かつてはその黒山によって、黒山の先の、万年雪を被った白三つ山から吹き付ける冷たい風が防がれていたらしいのだが、黒山の竹炭を伐採する内に山そのものの嵩が減り、冷たい風を防げなくなってしまった。おかげでこの土地の芽吹きは奪われ、ただ黒い土のみが残されてしまったのだという。

 黒山と、その先にあるらしい白三つ山を探しながら、ひたすらに真っ直ぐな道を漕ぎ進む。この道の先には黒山と緋色の街を繋ぐ1本の広い道があって、標識などはなかったと思うが、単に黒山に面していない一方に進めば緋色の街へと辿り着くことができるようになっている。弟はまだ幼いが、流石にそこで道を間違えることはないだろう。

 ふいに、びゅううと、黒山から冷たい風が吹きつけた。乾いた田園から巻き上げた土の香りをそこら中に漂わせる。土は舞わない。ここの土はとても肥沃なのだという。栄養分を豊富に含んだ重い土は、その役割を全うできる日を、冷たい風の監視下でじっと黙って待っているのだ。

 一方私にとって黒山からの冷風は、単純に体を冷ますのに一役買った。なにせ既に長い子と日陰のない道を自転車で漕ぎ続けている。気温的には決して暑いわけではないが、じんわりと汗が滲み、時折玉となって地面に印を残す程度には暑い。
 私は不意に、少しだけ弟のことが心配になった。暑さにやられていないだろうか、と。せめて彼が水筒を持って出たかくらいは確認するべきだったなと反省もした。
 しかしながら、彼は私よりもかなり早くに家を出ている。きっと陽も上りきっていない内だ。そうであれば、この道もそこまで苦ではないはずだ。

そんなことを考えていた私の自転車は、いつの間にか丁字路に到着していた。左に進めば黒山に、右へ行けば緋色の街に辿り着く道だ。私は一旦汗を腕で拭って、メッセンジャーバッグから変密水筒を取り出した。この変密水筒には、天然氷を2Kgと水を5L充填してある。氷が充填されたのは2ヶ月ほど前だが、キャップを開けて首を伸ばしたストローから吸い込んだ水は、滞りなく冷やされていた。

昆虫のカプセルトイ 3

 自動車三台は優に通れるような幅のある道を、たった一人、自転車を漕いで進む。背後、左右の三方遠くには背の高い黒山。コの字型に聳える黒山は、乾いた土の香りを十分に含んだ冷たい風を時々届けてくれた。それは非常に心地よい冷たさで、私の背中を優しく押して送り出してくれるようだった。

 黒山からの風を感じなくなった頃、私の前方には背の高い建物群が見え始めていた。自分の家の周りでは役目を果たせぬ肥沃な土も、黒山の冷たい風が届かないこの辺りならば十分に活躍できるようで、水路には透明の水が流れ、畑には種々の野菜が実っている。また、ここまで人っ子一人に出会わなかったが、畑の中で作業する人を時々見かけるようになっていた。人の気配というものは、どこかほっとする。

「あの、すみません!」

 私は自転車を止めて、わりと道路から近い所で作業していたお婆さんに声を掛けた。お婆さんは頭巾のついた長袖を着ていて、白い群手を嵌めていた。草を編んで作られた収穫カゴを背負っていて、丁度、実ったトマトを収穫していたようだった。

「はいはい。 どうしました?」

 お婆さんは手に持っていたトマトをカゴに入れると、いやな顔一つせずそう答えてくれた。

「今朝早く、六つの男の子がこの辺を通りませんでしたか?」

「あらぁ、探しているのかい。」

「はい。弟なんです。」

「そういえば、今朝、確かに子供が一人、黒山のほうからぐーっと自転車を漕いでいくのを見たねぇ。」

「本当ですか!」

 お婆さんは、黒山から緋色の街に向かってぐーっと手を動かしながら、そう教えてくれた。

「なにせ街から畑へ出る人はいるけども、黒山のほうから街へ入る人は多くないからねぇ。 珍しいからねぇ。」

 私はほっとした。弟は無事、緋色の街には辿り着いているようだ。流石に真っ直ぐな一本道を逸れて畑に侵入して迷子ということはないだろう。

「そうですか……。 どうもありがとうございました。」

 言って、私は頭を下げる。

「きっと見つかるわ。 それよりほら、これ、持って行きなさい。」

 お婆さんはこちらに歩きながら、背中に背負ったカゴを前に持ち直して、中から大きなトマトを二つ取り出して言った。自転車に跨っていた私は、降りて自転車を止めて、畑へと降りて行く。

「旬だから美味しいの。 ほら。」

 お婆さんから渡されたトマトはずっしりと重くて、真っ赤だった。

「わぁ、美味しそう。 ありがとうございます!」

「いいの。 見つけたら、弟にも食べさせてあげてね。」

「はい!」

 再度お婆さんにお礼を言って畑を出る。自転車のカゴのに直接トマトを乗せるのは憚られたため、保温バッグに入れたのだが、トマトがあまりにも立派なのでバッグの口を閉めることができなかった。かといって、別に保温がしたくてこのバッグを選んだわけではない。食事を入れるのにぴったりなバッグがこれしかなかったからだ。同じように、保温バッグに入れたトマトが、跳ねて転がりさえしなければそれだ良いのだ。
 わだちにだけ気を付けて進もう。そんなことを考えながら、私は再び自転車を漕ぎ出した。緋色の街はすぐそこだ。

昆虫のカプセルトイ 4

 緋色の街は、非常に煌びやかなところであった。凝灰岩を積み重ねて作られた二階から三階建ての建物が、自動車2台分ほどの道幅を空けて、向かい合って並んでいる。そしてその建物の間、頭上には、多くの赤提灯や赤垂れ幕がぶら下がっていた。

 どこまで行っても道は狭く、どこを見ても赤提灯と赤色の垂れ幕が目に入る。提灯には金色で模様が描かれており、その種類は連によって様々であった。垂れ幕にも金色で文字が書かれていたが、こちらは概ね逆さまの「福」と書かれていた。赤提灯といっても、詳しく観察すると細長いものや、真ん中が膨れたもの、綺麗に真ん丸なものなどがあった。垂れ幕にも正方形のものや、逆三角のものがある。家を出てから大半の時間を、土しかない田畑と誰ともすれ違わない一本道で過ごしてきた私にとって、この街は非常に刺激的で、祭りの日のように心を躍らせた。

 街の中心部に近づくに連れて、建物の間を彩る装飾だけではなく、行き交う人々の見た目もどんどん煌びやかになっていった。女性は皆一様に髪を長く伸ばし、それを頭の上で複雑にまとめている。時折、自分の頭よりも大きなまとめ髪をしている人を見た。まとめ髪は、真珠や宝石をあしらった髪飾りで程よく飾り立てられていたが、私はそれよりも首や肩への負担の方が気になった。

 衣装もまた非常に独特で、緑や青、黒、白などの光沢をもつ滑らかな生地に、金や赤の刺繍や、花びらの様に薄いガラスの飾りが縫い付けられていた。時折後れ毛のように衣装からひらりと薄い布が舞うのを見ると、どうやら、非常に薄い生地を幾重にも重ねて作られているらしい。その結果として、森や、海、夜空のような、あるいは陽の光のような、深く静かで、暖かい色を表現できるのだろう。

「あら、おねいさん。」

 人の多い通りを自転車を押して歩いている時だった。自分に声を掛けられたような気がして声のした方をみると、桃色の生地に金色の刺繍が施された服を着た、若い女性がこちらに笑顔を向けていた。肌は白く、目は切れ長で、頬と唇は衣装と同じように桃色をしていた。純粋に、すごく綺麗な人だと思った。纏う衣装はこの街特有のものであるが、彼女は周りの人々のように髪を頭上でまとめてはおらず、腰よりも長く艶のある黒髪を、時々吹く風に靡かせていた。

「珍しいカッコしてるわねぇ。 どっから来たの?」

 第一印象として、非常に人懐こい人だなと感じた。私が周りと異なる格好をしていたために気になったのだろう。緋色の街は非常に広い。黒山側から緋色の街へ入ったばかりであれば私と同じような格好をしている人も多いのだが、中心部に近づくに連れて、煌びやかな衣装を身に纏った人以外見かけなくなっていた。もしかしたら声を掛けてきたこの女性は、この辺りから出た事がないのかも知れない。

「黒山の麓の村から来ました。 弟が家を飛び出してしまったので……。」

 言うと、女性は目を真ん丸にした。

「あらぁ、随分遠くから来たのね。 弟は、どうして?」

「私が青い森のバス停横のガチャガチャの話をしたから、おそらく、それで。」

「あらぁ、一人で行っちゃったのねぇ。 でも随分勇気のある子じゃない。」

 ふふふと、女性は口に手を充てて笑う。その振る舞いは上品で洗練されていながらも、表情は猫のように無邪気で、なんとも不思議だ。

「そうねぇ……。 おねいさん、あなたトウシキミは平気?」

「え? トウシキミって、香りが独特な木の実ですか?」

「そう、そう。 あたし、トウシキミが少しでも入ってると苦手なのよ。 だからおねいさん、その緋色の、一個頂戴。 変わりにこれあげる。」

 あまりにも唐突に話の流れを断ち切られてしまったおかげでなんとも答えられずにいると、女性は口の空いた保冷バッグから顔を覗かせていたトマトを一つ取って、代わりにと、茶色い紙袋を自転車のカゴに入れた。

「今朝の賄いの、角煮包子。 うちの店のは、美味しいって評判なんだけどねぇ。 あたしは食べられないから代わりに食べて頂戴。 見つかったら、弟にも食べさしてあげてねぇ。」

 三度ほど口が折られた紙袋の中を覗くと、真っ白ないい香りの湯気が沸き出して、その奥にはふっくらと大きな包子が二つも入っていた。紙袋の内側にはアルミが張られているため、口さえ閉じておけばしばらくは冷めないだろう。

「え、二つも貰っていいんですか?」

「いいの、持ってって。 あたしも、みんなに声掛けてみるから。 おねいさんが探してるって知れれば、弟も、道を引き返すかもしれないしねぇ。」

 私がお礼を言う前に、女性は「それじゃあねぇ」と手を振りながら建物の中へと消えてしまった。
 お婆さんからもらったトマトは半分になってしまったが、弟と半分こして食べたって大きいくらいなので、むしろ丁度良かったのかもしれない。それに、女性から貰った包子はなかなか食べられるものではないし、きっと弟は食べた事どころか見たこともないだろう。

 きっと喜ぶだろうから、早く食べさせてあげたい。そのためにも、早く追いつかねば。人通りの多い路地を抜けて広い道に出ると、私は再び自転車に跨った。

昆虫のカプセルトイ 5

 それはまだ陽の昇り切らぬ薄暗い頃合に遡る。戸を静かに開け、できる限り音を立てずに締めようと試みる姿があった。弟だ。少年と呼ぶにはまだ幼い彼は、寝巻きから外着に着替え、青色のリュックサックを背負っていた。リュックサックの中にはザラメ糖をまぶした焼き菓子と透明のカプセルに閉じ込められた『昆虫』が詰め込まれている。また、彼は斜めに変密水筒を掛けていた。その水筒は銀色の金属でできており、青海波模様が彫られている。定期的にやってくる氷売りから購入した氷1kgを補填してからもう半年も経っているのだが、氷はまだ融けずに残っており、揺れるたびにカランコロンと心地よい音を鳴らした。

 玄関を出て右手側にある駐輪場には、自転車が二台あった。紺色のフレームのものと、水色のフレームのものだ。紺色の自転車は、水色に比べるとかなり背が高い。勿論、姉のものである。弟は水色の自転車のストッパーを蹴り上げて跨ると、まだ薄暗い庭を抜けて門をくぐった。

 門の先に広がるのは、自転車二台がすれ違うのがやっとというくらいの細く真っ直ぐな道だ。道の周りは水も稲もない田んぼ。土はからからに乾き、失敗した焼き菓子のようにぼろぼろと崩れている。道は田んぼより高い位置にあって、時折田んぼへ降りるための階段があった。階段以外の所を通って田んぼに下りるのは少々危険だ。なにせ道を降りたところには、深い溝があるからだ。これは、かつて田んぼが田んぼとして活用されていた時に、同じく水路として活用されていたものであるらしい。姉が物心つく頃には既に役目を終えていたため、当然、弟もこの水路に水が流れるさまを目にした事はなかった。

 弟にとってこの道は、常に危険と恐怖を感じる場所であった。というのも、彼の背丈はまだ小さい。もし万が一黒山からの強風に煽られて道からよろけ落ちてしまったとしたら、そして自転車ごと深い溝に嵌まってしまったら、きっと自力では抜け出せない。そんなわけでこの道が少し怖いことを姉に伝えたことがあるのだが、そんなに強い風が吹いたことはないと、彼女はあまり真剣に取り合ってはくれなかった。その出来事以降、弟は恐怖を抱いた事柄について、特に姉には話すことがなくなった。傍から見るとほんの些細な出来事かも知れないが、まだ幾年しか生きていないこの小さな身にとって、その出来事は信用を失くすに足るものだった。

 この道を走っているとこの一連の出来事を思い出してしまうため、弟にとって一番憂鬱な道でもあった。思い出したついでに家でまだ眠っているだろう姉に想いを馳せる。どうか、今朝は朝寝坊をしますように、と。

 弟が自転車を走らせてからそれなりの時間が経過した。すでに黒山からの冷たい風の届かない、畑の栄えた地域に差し掛かっている。緋色の街は目の前だ。あとは凝灰岩で作られた門を潜るだけというところまで来たのだが、弟は門を潜らなかった。はじめから緋色の街など目指していなかったかのように、まるで当然のように左折した。

 凝灰岩の壁に沿った道を自転車で走り抜けて行く。時折畑仕事に向かう軽トラックとすれ違った。その荷台にはさまざまな道具と、いくつもの籠が見えた。今は丁度、緋色の街の収穫祭の時期である。普通、豊穣の神に祈りをささげる祭りというのは秋に行われる。しかしながら緋色の街の収穫祭は、真夏のピークに行われることで有名であった。

 緋色の街を名乗るだけの事はあり、当然、この街の神は緋色のものを好むとされている。そのため、本来ならば青色のそら豆や紫色のナスさえも、この時期に収穫されるものは一様に緋色をしている。都合よく野菜の色が変わるわけではない。長い年月をかけて選別を続けた結果として、緋色に実るそら豆やナスを得たのだ。しかしながら当然というべきか、緋色の街の神が最も好むものは、大振りのトマトであるとされた。元来より緋色をした野菜であることは勿論、その丸いフォルムが、女神である緋色の街の神を虜にしたのだそうだ。
プロフィール

帝埜 やしる

Author:帝埜 やしる
 
好きな作家:
 村上春樹、森見登美彦

作品の内容:
・ローファンタジー
・夢で見た内容など

執筆中:
・くじらの夢
 (現在編集中です。)
・時計部屋の鍵と少女
・昆虫のカプセルトイ

完結:
・背の高い刑事と傷の少ない
 犯人の話
・ワールドプラネット

短編:
・タッタカタン
・冬の香り
・砂浜で埋もれていた亀の話
・公演会と誕生日会
・Settle Down
・ガラスの外殻を持つランプ

即興小説トレーニング
・甲板の男
・死にかけの血液
・気付かない振り
・二つの朝
・夢

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